さらに漂うものたち

ゆらゆらしているわたしのつぶやき

押し付けの反作用

誰かの言動によって自分が傷ついたことに後から気がつくことがしばしばある。「あ、傷ついたんだ」「嫌な気持ちになったんだ」と後になってから気づく。「後から気づく」のがまた悲しいやら悔しいやらで傷ついたり。とかく「気づき」で初めて「傷つき」を自覚することはあるものだ。


その時に気づくのではない。後から気づくのは、言動を発した相手の目前で自らの傷を知るより、後から気づいた方がまだ痛みや予後がマシになるのでは、というような、ある種の防衛機制のようなものが働いているのかもしれない。


「気がつかなきゃ傷つかなかった」のかもしれない。あるいは「気がつかなきゃ癒えない」「傷つかなきゃ癒えない」とも言えてしまうかもしれない。



高校生の時のエピソードを思い出す。

うら若き当時の私は汽車通学生。学校での用事が済めば、一時間に一本あるかないかの汽車にさっさと乗って帰ることを日々の目標としていた。


夏のある日も十七時十一分の汽車に乗るため談笑するクラスメイトたちの元を足早に去った。新品の自転車で校舎前の曲がり角を勢いに任せ曲がろうとして転倒した。


かなり大胆に転んだが即座に立ち上がり、また自転車をこぎ始める。十七時十一分の汽車に乗るのだから当然だ。ギリギリで汽車に飛び乗り、呼吸を落ち着かせようとする折にふと気づく。制服の膝が赤い。血が染みている、だけでない。布は溶け皮膚は擦りむけ露出していた。やっちまった。ここで傷に気づき自覚する。


「痛い」「グロい」「消毒しないと」「制服破けちゃった」など次々と考えや不安が巡りはじめる。物理的に傷を負った時点ではなく、傷を認識した時点で傷の存在は生まれ、痛みが生じるという経験。


アドレナリンで痛みを感じなくなるという話は有名だ。心の感覚を麻痺させるアドレナリンはあるのか。



「喉元過ぎれば熱さを忘れる」なんて言葉があるけど実際どうだろう。と思いGoogleの検索窓に「喉元過ぎ」まで入力すると候補に「喉元過ぎても熱い」と出る。やはり同じことを考える人はいるものだ。トップヒットは個人ブログ。『喉元過ぎても熱いものは熱い』という題の記事だった。


以下引用。


"熱いものを食べても、多少の程度なら何の問題もなく忘れられるでしょうが、熱すぎると火傷という形で残ってしまいます。それからは火傷のせいで特に熱くないものを食べても痛い"

『浪人失格』

http://kusomaguroman.hatenablog.com/entry/2017/06/01/194825


あぁ、あるなぁ。

喉元を過ぎてからの方が痛かったり、敏感になってしまったりということがあるんだ。



価値観や考え方を押し付ける人がいる。

「それはこうあるべき」

「それはそうじゃない」

「あなたは変」

「あなたもそうでしょう?」などと。


私には私の考えがある。

あなたにはあなたの価値観がある。

あなたの考えは私の考えではない。

私の価値観はあなたの価値観ではない。

それを押し付けられても困る。傷つく。

疲れる。腹が立つ。


はっきり言わないと気づかない人がいる。

はっきり言ってもわからない人もいる。

気づいても変わらない人がいる。

わかってもやめられない人もいる。


それは事実だろう。だからといって押し付けられて「気にしない」と言って傷つき、「わかった」と言って自分を殺すことはない。



物体に力を加えると、力を加えられた物体には作用が、力を加えた側には反作用が働く。ともすると、考えや価値観を押し付けた折にも「反作用」が生じるのでは。性別や年齢、所属や何かの言葉で人を括ることは個人的に下らないことだと思っていで、半ば蔑んですらいるけれど、「押し付ける人」と括った時、彼らの言動には辟易する一方で共通して何らかの「必死さ」を感じることがある。


考えや価値観を「押し付ける」行為は、一人では消化(昇華)しきれず抱えている何らかの不安やコンプレックスなどの表れであり、それを他者に押し付けその反作用を得ることでそれらを変容させようとする試みなのではないか。というのは深読みか。あるいは。


とにかく、どこか救いを求めているような、認めてほしいというような、彼らにそんな色の「必死さ」を感じることがあるという話。


そのような必死さにはある程度「誠実に」応えたいという想いがある。たとえ偏見に満ちたものに感じられたとしても、その人はきっとその考えや価値観と共に、あるいはその中で生きてきたのだから。仮にそれらを真っ向から否定してしまえば、それはその人の生きてきた諸々を否定することになりかねない。だからこそ、押し付けを聞く時の私はとても真面目な顔をしていると思う(無表情ととられているかも)。



押し付けられた側はあまり良い思いはしないし、押し付けの力が強ければ強いだけ傷を負うリスクも大きい。やもすると復元が難しいくらいに砕けたり腐ったりしてしまうかもしれない。


何かを否定することは、結果的に別の何かを肯定することになる。逆も然り。その関係性は作用と反作用の関係によく似ている。力を加えた方向とは逆向きに同等の力が加わるという。


ここから、押し付けで無自覚に他者を否定することで得られる自己への肯定もあるのではないか、とも考えてみたり。



残念ながら絶対に人を傷つけないなんてことは不可能なんだ。傷つけないように意識することはできたとしても。


人を傷つけることを肯定したりはしないが、かといって全否定もしない。その辺はまたの機会に深めよう。



だんだんまとまらなくなってきたのでこのくらいにしておきたい。


まとまらないのはしゃあない。

しゃあなしの翁である。


幸い、少しの傷を治せるだけの治癒力なら持っている。とはいえ、やはり傷つきたくはないし、押し付けは勘弁願いたいものである。