【報告】「『ずーん...』とか『うわー!』とかの感情についてゆるっと語り合いながらクリスマスリース作り」
きむきむです。お久しぶりです。12月の活動報告を、と思っていたら1月になってしまいました、という記事を書こうとしていたら、やはり2月になってしまいました。
こう「ちゃんと書かなきゃ」という気持ちは強いんですけど、その気持ちに応えられるだけの「ちゃんと書ける」力が無いのだと思います。いや、無いわけじゃないか。「ちゃんとかける」のがゆっくりなだけですね。そうですね。こうしてまあまあちゃんと書けているじゃないですか。2月になったけど。
2月には書けたのでまあよくやった方じゃないかと思っています。
まったく私ったら本当によくやりましたね。
いやしかし、時が過ぎるのがはやいです。
いやしかし、すごいはやさです。
私もあっというまにアラフォー、アラフィフになってしまう。
さてさて、遅ればせながら2019年12月8日に実施した「『ずーん...』とか『うわー!』とかの感情についてゆるっと語り合いながらクリスマスリース作り」の報告です。「遅ればせながら」と言うと遅れたことがちょっとおしとやかな感じになるのでよく言います。すきです。
今回はTwitterを見ていた知人からの持ち込み企画で参加者は 8名 でした。
日常のなかで生じる「ずーん...」とか「うわー!」とかの感情。。。
私はいざ問われるとなかなか思い浮かばなかいのですが、浮かぶ人は浮かぶようでしたが、皆さんはどうですかね。
「クリスマスリースを作りながら」というのがユニーク。
たしかに、車座になって何か手作業をしていると、ぽろぽろと言葉が出てくるということがあります。特に、食事を共にしながらだと普段話さないことがでてきたりもするんじゃないかと。
昨年まで関わっていた北星学園大学の「生きづら研究会(現:生きづら探求所)」の活動でも、教室内での活動より、活動後に有志で行ったサイゼリヤでプチフォッカチオをちぎっていた時の方が、個人のちょっと深い部分の話がでてきたりしたものでした。
その点で、今回はお菓子がたくさんあったので各々つつきながら、やっていたのでそういう効果もはたらいていたかもしれませんね。
でも、リース作りに集中していてあんまりだったかな。「カニを食べると静かになる」なんてこともありますから、食べ物に寄りけりかもしれませんね。
今回は20~40代と幅広い年齢層の参加者がありました。各年代ならではの悩みで共感が生まれたり、一方で年代が異なると理解し難いこともあることなどもあるようでした。ジェネレーションギャップってやつですかね。
前回同様任意で感想をいただきましたので以下に紹介します。
(掲載許可いただいています)
〇参加者の感想
ようよう さん
ゆるーい感じでとても楽しかった^ - ^ありがとう!
nao さん 40代
クリスマスリース作りも楽しかったし、色々な年代の方々とお話しできたのがとても良かったです。時間があっという間に過ぎてしまった!また是非参加したいです。
名無しさん 20代
無理に話さなくてもあの場にいられるという空気感はよかった。
まくねがお さん 30代 札幌市内
面白かったです。僕は大事なことをすぐに忘れてしまう失敗について語らせてもらったけど、参加者の方々も、似たような苦労があったようで、自分だけじゃないんだなあ、と心底感じられて、有難かった。短期記憶とか、並行処理能力とかって、大人は当然あるものと看做されがちだけど、そうとも限らないんだなあと思った。
他の人の経験や工夫も聞かせてもらえ、僕も明日から試したい工夫を見つけられた(スマホアプリやグーグルカレンダーのアラーム機能を使い、夜寝る前の目覚ましセットのタイミングでスケジュール確認するクセをつけ、ルーティン化する、というもの)。失敗しても自分を責め過ぎないようにしたい。
また、ある人の悪い側面ばかりが見えてしまい、落ち込んでしまうときの対処方法とは?という話題が興味深かった。一対一だとそれほど悪い人でもないのに、集団の中にいると人の悪口ばかり言うので、その人の悪いところが目立つ、という経験談があり、僕もそう感じる経験が過去あったな、と思った。
集団のとき、共通の話題がないと、人の悪口が唯一の盛り上がれる話題になってしまう。そういう側面があるのかな、とか。人々の悪意に触れると、世界全体が悪意に満ちているような気がして、それで独りのときに不安な気持ちになるのかな、僕にもそういうときがある気がする、とか。色々思った。
傷つきを自覚できる力(=受傷力)には、理不尽を顕わにさせる意義がある。でも、「傷つきをちゃんと感じろ」と他人に強要する振る舞いは、絶対しちゃダメだ、と今日思った。
生活のために、理不尽な出来事が蔓延する場所に、どうしてもいなくちゃいけない場合はある。その場合、受傷力はネックになる。自身の傷つきを自覚して深くすればするほどメンタルが崩れ、その場にいることに耐えられなくなってしまう。その世界の「常識」にやられ、排除される他なくなってしまう。
傷つくこともまた、その人のペースに委ねられるべきだ。傷つきを感じないように過ごす、そんな時期も、きっとときにはあらざるを得ないんだ。まず自分を助けること、そして、あくまでも自分のペースで、他人の暴力や悪意に抵抗し、理不尽な世界を変えるアクションへと踏み出すことが大切なのだろう。
僕もすぐに自他の区別をなくしてしまう。今日のような場を大切にして、みんなが自分を大切にできる時間や空間を確保できるようにしながら、ぼちぼちやっていきたい。他人への不信感で一杯になるような人間関係は、確かにある。それを変えるためにも、まず自分をいきいきさせなくては始まらない。
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前回も今回も参加してくれて感想も書いてくれている、まくねがおさんは11月、12月の活動でも会場提供してもらっている漂着教室にて「ごめんねギャバン@札幌」というメンズリブを考えるあつまりを月1のペースでやっている方です。
ごめんねギャバンには立ち上げの際にも声をかけていただいてちょっと携わりました。最近参加できていないのですが、面白い取り組みです。
活動説明をブログから引用させていただきましょう。
「ごめんねギャバン@札幌」とは、
札幌で開いている、メンズリブの集まりです。
「男らしさ」を入り口・きっかけにして、
ぼくら自身の昔のこと、目の前のこと、ちょっと先のことを、普段とは別の角度で、少し引いた視点で語って、考えられる。
そんな時間と場所を、「ぼくら自身で共に」作っていきます。
「男のこと」と、「ぼくのこと」とを、それぞれがゆるゆる、ぐずぐずと語り、考えます。
ごめんねギャバン@札幌とは?/ごめんねギャバン@札幌(2019.10.25)の記事より。
https://gomennegavan.hatenadiary.com/entry/2019/10/25/222033
興味ある方はブログ「ごめんねギャバン@札幌」や
Twitter「ごめんねギャバン@札幌 (@gomennegavansap) | Twitter」を
のぞいてみるとよいでしょう。ではでは。
フライパン
フライパン。いま使っているのはフッ素コーティングの。よくある安いの。前に使っていたのもそう。たぶんずっとそんなの。でもあれは結局コーティングが剥がれちゃうの。使い方かもしれないけれど剥がれちゃうの。そしてきっと知らず識らずのうちに剥がれたコーティングを食べている。そのことは全く気にならないわけじゃないけどほとんど気にしていない。それより困るのは食材がくっつきやすくなってしまうこと。ところで最近餃子を焼いて食べたい。餃子とビールあるいはハイボール。あれを家で成し遂げたい。餃子を焼く用意をしていざ使うのがくっつくフライパンだなんてそれはまずい。そんなとこでフライパンを新調しようと思っているのだけれど、フッ素コーティング以外のものにしたい。すると何があるか。鉄フライパンを長持ちさせる几帳面さが私にはない。プラごみをもう3週間も回収に出せていないくらいだから。他のやつ。わりといろいろある。コーティング系は剥がれたりもするけど、やっぱりくっつきにくかったり、重量が軽かったりで扱うのが楽なのよね。剥がれにくいコーティングもあるらしいし。もう一つ気になってるのはステンレス。銀色でかっこいい。スマートじゃないか。しかしいくらスマートなパンを導入したところでキッチンも使用者もスマートじゃないからどうにもならない。ステンレスは熱伝導率が低く温めるのに時間がかかって、熱ムラも生じやすいらしい。それから炭水化物がくっつきやすいんだとかなんとかもあるけど、熱伝導率が高いアルミを挟んだ多層構造の品ならムラが抑えられるとか、ステンレスは硬い素材なので少々強めにガシガシ洗えるとか。まあ一長一短よね。そういうものよね。うだうだ書いているうちに料理のモチベーション上がるやつ買えばいいじゃんと思えてきた。そうだそうだ。ああ買っちゃうな。銀色のやつ買っちゃうんだろうな。おわり。
水出し緑茶
23時
こんな時間に電子レンジを回せば隣人には迷惑かしら
*
この前 緑茶のティーパックを買った
夜に作業することが多く 温かいものを飲みたくなる
コーヒーを飲むと一丁前に眠れなくなってしまうので
緑茶を買ったんだった
*
以前からなんとなく水出しに憧れていた
本当はコーヒーでやりたかったんだけれど
道具を買うのが面倒だった
今も面倒だし しばらくは面倒だ
*
適当な容器に緑茶のパックと水を入れて冷蔵庫に一晩
しかしこういう時に私は大体一晩では済まず
24時間くらいは置いてしまう
こだわりがあるわけではない
興味が維持されないといったあたり
*
それで今日取り出してみると色が薄い
緑茶に対して水が多すぎたんだ
パック1つなのだから湯呑1杯分
そんなことはちょっと考えればわかるものなのに
湯呑2杯分は入る容器で作ったので
2杯分くらいの水をいれてしまったんだ
素直な人だね
*
祖父の家でよく飲んでいた煎茶が濃かったから
比べて薄く見えただけかもしれない
飲んでみるとひどく薄いわけでもなかった
*
水出しを作った時には冷たいのを飲みたかった
けれどすでに温かいのを飲みたくなっていた
それなら湯を沸かして淹れたらいいじゃないか
という話なのだけれど
水出しを温めたらなんかおいしそうじゃないか
とも思った そんな料理なかったっけ
冷たい緑茶をマグに入れ レンジにかける
*
電子レンジは温めたものを出さずにいると
ピーピー鳴いて人間をたきつけようとする
けれどあれは急かされるようで好かないので
音は出ないよう設定してある
今回もこれを書きだしたものだから
湯冷ましになった
*
あたためを押しても茶はあたたまるが
牛乳・酒というボタンがある
これは「牛乳や酒がなんかわかんないけどちょうどいい温度になるボタン」
と古来より私によって信じられてきたが
今年の正月になって「突沸を防ぐボタン」らしいと知った
それで押すボタンは変わらないのだけれど
ちょっと違うボタンに見えてくる
無精髭
口髭が生える上唇と下唇それから顎特にこだわりはなく気が向けば剃る程度で伸びていることもよくあるいわゆる無精髭
無精髭を貯えているとない方がいい毛が薄いと格好よくないから剃った方がいいあの人は似合うけどあなたは似合わないとかとかそんなことをよく言われる
他人の容姿にアレコレ言われなくなってきた時代のような気もするがまだまだなんだなと感じる「身だしなみ」なんてのも鬱陶しい
よかれと思って言っていたり何か「常識的」なことを教えてくれようとしているのかもしれないしかしそれらを踏まえてもないし踏まえて勝手なことを言ってくれるな好きにさせろと思う
そんなことを考えていた今朝だけど履歴書用の証明写真を新たに撮ろうとすると「…髭剃るか」と思うし髪の分け目なんかも気にしてしまうわけで結局お前もか…と私もまだまだなんだ
なんてまったくうんざりばんばん
瞬間少年ジャンプ
今朝のこと。部屋で着替えて脱いだ服を洗濯機に入れるとき。なんだか急に気分が上がってしまって、ジャンプして洗濯機にシュートしたくなったので、すかさずそうしたのだけれど、すると私としたことが部屋の垂れ壁の存在を忘れていて、それに勢いよく頭をぶつけてしまった。とても痛い。とても愚かしい。いやはや。さすがに自分で笑ってしまったよ。
でも、一瞬だけ少年に戻ったんだろうと妙に納得している。
こうしたことはたまにある私だ。昨秋に大学の人と宅飲みしていて、コンビニに買い出しに行った帰り、後輩に「きむきむ、鬼ごっこしよう!」と言われて「いいよ!」と応えて走り出した運動不足の酔っ払い(私)は3歩駆け出したあたりで派手に転び、手のひらや腕、膝やらを擦りむいて帰った。酔っていたのでそこまで痛くはなかったが、傷跡は未だ残っている。痛いのは苦手なので酔っていてよかったとも思っている。
こうした出来事を思い返すと、自らの心に生き続ける木村少年が何かのきっかけで出てきちゃうんだな、と感じる。少年のつもりで、とっさに走れる気がしたり、ジャンプで垂れ壁にぶつかるなんて思わなかったり。心が過去の経験をもとに、現在の身体感覚や機能、能力を無視して「子どもの頃やってたからできるっしょ!」的なノリで頭に指示を出して体を動かしてしまっている。そんなイメージが浮かぶ。体にとっては迷惑極まりない。
しかし大きな怪我でもしたりさせたりしたら大変なので、もう少し体に耳を傾けようと考えた朝だった。
【報告】プレ企画 「あいまいな生きづらさから考えるなう」
11月11日、プレ企画「あいまいな生きづらさからかたるなう」を実施しました。
FacebookとTwitter、LINEで告知したところ、4名の参加がありました。ありがとうございました。
「人生の自己肯定感グラフ」を用意していたのもあって「自己肯定感」についての話が中心に話題が広がっていったように思います。
許可をいただいている範囲で以下に参加者の皆さんがアンケートで回答された感想を紹介します。
1.アールグレイ さん(20代)
普段の日常生活では会わない方々とお話出来てとても新鮮でした。特によかったなぁと思った事は、自己肯定感グラフがあったことです。それがあった事で自分の人生の中で苦しかった(今も苦しい)ことは何かということが明確になったので、初対面の人とも話すきっかけになりました。また、それがどういう風に辛くて、ということをみんなで共有、共感し合ったりその場面で行っていた感情コントロール法等の意見を出し合ったりことがとてもためになりました。
2.けんた さん(札幌市内 20代)
色々な環境を経験した人の話が聞けて生きづらさのパターンや考えかたを聞けて楽しめた。機会があればまた参加したい
3.ゆーた さん(20代)
色々愚痴れて、楽しかったです✨
4.いっちー さん
楽しかったー。なんとなく良かった!(がベスト!)
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参加者からの感想は以上です。
参加者の皆様、感想の提供ありがとうございました。
さて、私以外は参加者同士はほぼ初対面だったのですが、自己肯定感グラフをそれぞれが書いたところで「『自己肯定感』って何だろう」という共通の疑問で話が深まりして面白かったですね。時間が進むとみんな勝手に(いい意味で)話していてくれたので楽ができました(ずっとギターをつま弾いてた)。
今後も無理のないようやって行きたいと思っているので興味ある方はご参加ください。
ところで名前をどうしようかなぁ、と考えていて、キーワードとして考えているのが「あわい(閒)」。何かと何かのあいだのこと。
いろいろ考えたり悩んだり、あるいは助けられたりもすることってのは、何かと何かの「あわい」にあるんじゃないかな、と思うところがあるからです。
あなたと私、私とおうち、家と学校、家族と私、私と職場、今と過去、過去と未来、あっちとこっち、男と女、酒と涙と、、、etc
そうしたことを話せる場があったらいいなぁ、と。今回「あいまい」とタイトルにつけた背景にもこうした考えがあって、白とも黒ともつかない名前もないような曖昧な色の事柄が生きている周りにはたくさんあるのでね。
うん、そんなことを考えていた。
やっぱり一度やってみると「やっていけそう」という感覚が生まれる。またいろんなひとに話を聞きたくなってきた。
今後もバーンアウトしない程度にやっていきたいので、どうぞよろしくお願いします。
気づいたこと
久しぶりにやや長文を。気づいたことがあって。
話し合いの場で意見をしたり、Facebookに自分の考えを発信することに、私はしばしば強い不安を覚える。厳密にいうと、意見を言ったり発信することではなく、その結果返ってくる他者の反応がこわい。違う意見が返ってくると否定されたように感じてしまいがちで、それもこわい。発する前もこわいから、発さないこともあるし、発してからもそわそわや不安が止まらない。これがなかなか困るのだ。
ちなみに私が胸をトントンしていたり、上半身をユラユラしていたら、ソワソワしているサインだよ。さがしてみよう!
この不安は自らの自信のなさだったり、考えの浅さの表れだったりなのかな、とごく最近まで考えていたのだけれど、ほんの数日前にひょんなことで気づいたことがあって、思い出されたのは、私が不登校になった時のエピソードだった。私が不登校になったのは約12年前、小学5年生の春。担任の教師が変わって間もなくのことだった。新しい担任は児童たちの間でつくられた「怖い先生ランキング」の上位の教師としてにわかに噂された人物だった。
不登校は、何か一つの「原因」があるというよりは、大小さまざまな「要因」があって結果的に「休まさる」という感覚が今のところはしっくりくる。私も何がきっかけだったかといえば今でもよくわからない。10年以上たった今でこそ少し考えることができるが、渦中の子供に不登校の「原因」を問うのは、雨の中に置いておいた水瓶を溢れさせた雨粒を見つけろと言っているようなものだと思う。
それはそれとして、私が講演などで不登校のきっかけとしてよく語るエピソードで、小5の新学期が始まり、そのランク上位(笑)の担任からクラスルールの発表なんてのがあったときのこと。「忘れ物について1回目は注意します、2回目は…」などと、忘れ物とそのペナルティ(?)の話があり、うろ覚えではあるのだが、クラスの誰かが「◯回目はどうなるんですか?」と質問して、担任がそれに回答したのを見計らって、私も続いて挙手し「△回目はどうなるんですか?」と聞いた。そしたら担任から「調子に乗るな!」と叱られた。そんなエピソード。
まぁ、たしかに調子に乗ったかもなとも思うのだけれど、それでもこちらとしてはもっとウィットに富んだ返しを期待していたから、学校大好き先生大好きだった私としては結構ショックだった。担任をとやかく言うつもりはないけど、今年くらいに母に聞いたら、その年は私のクラスの半分(15人中7人くらい)が不登校になったらしいので、なるほど、となる。それでも当時は担任を疑うことはなかった。「大人(教師)は正しい」と考えていたと思う。だけどやっぱりあの教師にはとやかく言いたいかもしれない。まだ教師をしているのだろうか。会いたくもないが。
ちょっと話が逸れた。ともかく、不登校になった頃のことで覚えていることってそんなにないんだけれど、この「担任に発言して叱られた」という体験はなぜか印象が強く残っている。それで、この体験によって「何か言えば叱られるかも」という不安が私の無意識の中にトラウマとまではいかないにしても、「跡」として残っていて、10年以上消えずに生きて来たのかもしれない。ということが「気づいたこと」です。
その担任のエピソード自体は、今までそんなに重く考えていなかったのだけれど、会議の場で発言をすることだったり、Facebookに投稿したときだったり、他者からどんなリアクションをされるのか「過度に」不安になっちゃう自分に改めて気づいて、何か背景があるのかもなぁ、と思っていたのと上記のエピソードが重なって、確信は持てないのだけれど妙に納得したのです。
自分では「なんてことない」と思っていたことでも、心にくっきりと跡が残ることってある。連想されたのはボタン注射。刺した時のことなんて覚えていないし痛みも覚えていないけど、ふとしたときに気づいたり誰かに言われたりして「そういえば」と注射痕の存在に気づいたり痛みを想像したりするんだ。
そういう記憶ってあるものかもな、と。
そう気付いたところで不安がなくなるわけでもなく、この文章も不安になりながら投稿するのだけれど、ちょっと共有してみたいなと思ったので書きました。何か語れそうな人がいたら飲みに行きましょう。